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福岡地方裁判所 平成元年(ワ)1046号 判決

原告

九州航空株式会社

右代表者代表取締役

坂本晋

右訴訟代理人支配人

角安介

被告

久間誠

右訴訟代理人弁護士

田中久敏

平田広志

主文

一  被告は、原告に対し、金一万円及びこれに対する昭和六三年一一月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、金一万八〇〇〇円及びこれに対する昭和六三年一一月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告が、その従業員である被告に対し、業務従事中に原告に損害を与えたとして、債務不履行(労働契約に内在する善管義務違反、民法四一五条)又は不法行為(民法七〇九条)に基づき損害賠償を求めた事件である。

一  争いのない事実

1  原告は、航空貨物の運送業を目的とする株式会社であり、被告は、原告の従業員である。

2  被告は、昭和六三年七月二七日午前九時二〇分ころ、福岡市博多区博多駅東一丁目一番三三号先の交差点において、原告所有の普通貨物自動車を業務上、貨物集配の目的で運行中、同交差点をJR吉塚駅方向(北側)から、福岡市道(博多駅方向(南側)に通じる道路と交差する道路)を東向きに左折する際、同車後部の左側ドアが半開きの状態になり、同交差点のJR吉塚駅側の横断歩道の左側に設置してあった電柱のバンド止めボルト(地上から約一・五メートルの位置に取り付けてある)に同ドアのフック装置(ドア開閉止め装置)のシャフトをひっかけ、同装置を損傷する事故(本件事故)を発生させたが、同ドアが開いたのは、被告が同ドアのフック装置をセットせずに運行していたためである。

3  原告は、被告に対し、昭和六三年八月三〇日、本件事故による損害について、金一万八〇〇〇円を賠償するよう「負担金支払い通知書」をもって通知し、その後、同年一〇月二八日発送、同月三一日到達の「事故負担金支払請求書」をもって支払を催告した。

4  原告が昭和六一年一月二二日制定した就業規則(現行就業規則)一五条には、「従業員は、故意または過失により会社に損害をかけ、会社から損害賠償を請求された場合はその賠償の責に任じなければならない。」との規定があるが、被告が原告に雇用された昭和五〇年九月当時の原告の就業規則(旧就業規則)には、右のような規定は存在しなかった。

二  争点

1  原告会社内において、原告から従業員に対し、業務中の交通事故による損害等については、その賠償請求をしないという慣行が存在していたかどうか(右慣行が、原告と被告間の労働契約の内容となり、被告に、原告から交通事故に関する損害賠償を請求されることはないという既得権が発生していたかどうか。また、右慣行、既得権の存在により、原告の現行就業規則一五条の制定が、合理性のない不利益変更となるかどうか。)。

(一) 被告の主張(抗弁)

(1) 慣行、既得権の存在について

原告の主張する労働契約に内在するとされる善管義務違反による賠償義務についても、契約の両当事者が、この善管義務違反による賠償義務の適用を一部排除するという意思を明示もしくは黙示に有している場合には、契約当事者の任意に委ねてよいことは言うまでもない。したがって、本件では、右のような明示もしくは黙示の意思があったか否かが問題となるところ、第一に、原告の旧就業規則に事故弁償に関する規定がなかったことは、善管義務違反による賠償義務を免除する意思を原告自らが明示したものであると言える。なぜならば、一般の就業規則には、この旨の規定が記載されているのに、原告の旧就業規則で、あえてその規定を欠落させていたのは、免除する意思を明示したものと見るべきであり、しかも、道路上の車両運送に事故はつきものであって、当然予想できるにもかかわらずあえてその規定を欠落させているのは、右賠償義務を免除する意思であったと考えるのが合理的だからである。第二に、長年の慣行の存在は、少なくとも原告が事故弁償の義務を免除する意思を黙示に表明していたものと考えざるを得ない。すなわち、被告が原告に雇用されて以来、少なくとも現行就業規則を制定した昭和六一年一月までの一〇年間以上にわたって、原告は、従業員に対し、本件のごとき事故に関する弁償をさせていなかったものである。更に、右事故弁償の負担をさせないことは、長く業界の慣行になっていたものであり、このことは、弁償免除の黙示の意思表示と言うよりも、むしろ明示の意思表示があったことを示すものと言うべきである。

被告は、右のような原告の明示もしくは黙示の意思表示を受け、事故に関する弁償はないものとして雇用され、労働関係を継続してきたもので、被告には、事故に関する弁償を負担させられることはないという既得権が発生していたものである。

(2) 就業規則の不利益変更の合理性について

現行就業規則一五条の制定は、旧就業規則を不利益に変更したものであり、その合理性については、本件のように既得権の侵害のある場合は、既得権の侵害のない場合以上に厳格に解すべきであり、その合理性のないことは明らかであるから、右変更は許されない。

(二) 原告の主張

(1) 現行就業規則一五条は、昭和六一年一月旧就業規則を現行就業規則に全面改訂した際設けられた条項である。旧就業規則には、従業員の損害賠償に関する条項は、明文規定としては含まれていなかったが、現実的、日常的には、交通事故に限らず貨物事故等に至るまで、当該従業員にその都度事情を聞き、注意、指導を行う際、弁償してもらう旨の示唆を含め、なお一層の注意を喚起していたものであって、右一五条は、実質的には、明文をもって規定化したものに過ぎない。そして、右事情のもとにおいて、従業員自身不法行為上の責任はもちろん、業務に関する債務不履行については、労働契約に基づく賠償責任を本来的に負担しているのであって、明文条項をもって右責任を免除しているのであればともかく、単に被告が原告に雇用された当時の旧就業規則に、同条項が、存在していなかったからといって、右賠償責任を免れるという既得権が、自動的に被告を含む従業員に生じたとは到底言うことができない。

(2) 仮にそうでないとしても、右一五条を含む現行就業規則の実施、事故弁償に関する内規の実施により、被告主張の慣行は変更しているもので、その変更については、次のとおり、合理性がある。

〈1〉 従業員が就業するに当たり、故意又は過失により会社に損害を与えることは一般的に生じている事実であって、同事実に徴すれば、責任の負担を求めることにつき、就業規則が労働契約の一部をなす限りにおいて、前記のとおり、労働契約の本旨から導かれる右一五条を制定することには合理性がある。

〈2〉 事故弁償に関する内規は、右就業規則と一体をなすものであるところ、同内規は、従業員が事故防止について確たる意識を持ち、安全対策の基本に立って、自己管理の向上を計るとともに、損害の一部を負担することの痛みを通して、事故防止の抑止力を強めることを目的とし、実施するもので、事故費の一部負担が仮に不利益変更に当たるとしても、事故抑止力強化の観点から、必ずしも不合理とは考えられない。

2  原告の本件請求が、信義則違反又は権利の濫用になるかどうか。

(一) 被告の主張(抗弁)

原告と被告間には、次のような事情があるので、本件事故による損害(修理費)三万円のうち、一万八〇〇〇円を被告に負担させるのは信義則に違反し、権利の濫用である。

(1) 被告は、二トン車業務を担当しているのであるが、二トン車業務には、特に重い物や数量の多い物が割り当てられたり、担当区域が決まっておらず、かなりの広範囲を集配させられたりして、不慣れな道を時間に追われながら運行しなければならないなど、その業務、労働条件は過酷である。

(2) 原告会社内では、年に二回事故を起こしているような運転手が何名もいるが、被告は、貨物事故を含め十数年間にわずか数件しか事故を起こしていない。

(3) 被告は、本件により無事故手当金月二五〇〇円を六か月(合計一万五〇〇〇円)カットされており、すでに十分な経済的制裁と会社への実質的弁償を行っているので、本件のごとき軽微事件でこれ以上の本人の負担を求めるのは過酷である。

(二) 原告の主張

前記1(二)の(2)記載のとおり、現行就業規則一五条の規定は合理的なものであり、本件請求は、信義則違反、権利の濫用とはならない。

第三争点に対する判断

一  争点1(慣行、既得権の存在)について

1  証拠(証拠・人証略)、及び前記争いのない事実によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 原告は、昭和三八年一一月二八日に設立された株式会社で、主に、福岡市、北九州市を中心として、航空貨物の集荷配達等を目的とし、その事業遂行のため、大型貨物自動車一台、普通貨物自動車三三台、軽貨物自動車八台等を保有し、貨物の集配を行う営業担当従業員約五七名、その他の従業員(一般従業員及び管理職)約六三名がいる。

被告は、昭和五〇年九月一日、右集配業務を行う営業担当従業員として採用されたものである。

(2) 原告会社では、昭和四三年ころ、旧就業規則が制定されたが、事故弁償に関する規定は設けられていなかった。

しかしながら、当時から、従業員を採用する際には身元保証契約が締結され、同契約書には、身元保証人は、被用者が使用者との労働契約に違反し、又は故意、過失によって使用者に金銭上、業務上、信用上損害を与えたときは、直ちに被用者と連帯して使用者に対してその損害額を賠償するものとする旨の約定があり、被告の採用の際も、被告の身元保証人との間で同様の契約書が作成されていた。また、昭和五三年八月一日から施行された運転心得(車輌取扱規定)の一一条一〇項には、運行中の事故のうち、本人の重大な過失によるものについては、損害の一部又は全部を負担させる旨の規定もあった。

(3) 現に、原告会社では、昭和五四年六月、四トン車のアルミバン天井の前部を、当時の北九州市小倉区船頭町の国鉄ガードに激突させ、約一五〇万円の損害を出した事故で、事故を起こした従業員が約三十数万円の弁償金を支払っており、また、昭和五七年八月、北九州市小倉北区到津電停前で、本件事故と同様、フックをセットせずに走っていて、カーブした際ドアが開き、他の車両に破損を与えた事故において、事故を起こした従業員が弁償金を支払った事実もある。

(4) ところで、原告会社では、昭和六一年一月二二日現行就業規則一五条を制定し、同年二月一日から施行した。それに先立ち、昭和六〇年一〇月一日には事故等検討委員会規程(証拠略)が制定され(昭和六二年一月末日に一部変更)、その後、事故弁償に関する内規(証拠略)が制定され、昭和六二年四月一日以降発生した事故について適用されることとなり(ただし、事故損害金の一部負担は、現実には昭和六二年二月発生分から実施された。)、従業員の事故負担金制度が正式に実施されることとなったが(昭和六二年四月一日以降の分一六件、昭和六三年分二〇件)、これらの制度の明文化、一律実施は、交通事故、貨物事故等の増加を防止する等の理由から導入されたものである。原告会社内で実施された事故等による損害の一部弁償の具体的な運用に当たっては、賠償金の高額負担の排除と事故防止に対する抑止力を高める観点から、前記事故等検討委員会規程及び事故弁償に関する内規(同内規は、業務上会社が被った事故による損失金の回収を本旨とするものでなく、当事者が事故防止・安全対策の基本に立って自己管理の向上を計ること及び会社の事故取扱に公正を期すことを目的とする。)に基づき、概要、会社の管理職等をもって構成する事故等検討委員会(原則として、専務取締役を委員長とし、以下管理職の副委員長、委員、事務局、当該所属長の合計一〇名)の審査・裁定委員が、車両事故、貨物事故、金銭事故について、本人作成の事故報告書及び事故てん末書を中心に本人に対する事情聴取を行い、事故発生原因、態様等を分析検討し、責任の存否、過失の程度、過去の事故歴、情状等を集約の上、事故損害金負担額審査表(事故弁償に関する内規の別表)に照らし、負担させる額を定め、その負担の痛みを通して業務の過程で発生する事故抑止力の強化を計ることを目的とし、従業員に事故の一部弁償をさせる制度として実施しているものである。その一部負担額は、損害額を一〇〇万円以上、五〇万円以上、三〇万円以上、一〇万円以上、一〇万円未満の五区分に分け、負担基準も、故意による場合一〇〇パーセント、重大な過失による場合一〇〇ないし八〇パーセント、相当重い過失による場合八〇ないし五〇パーセント、中程度の過失による場合五〇ないし二〇パーセント、軽度の過失による場合二〇パーセント以下とし、負担の範囲は、車両・貨物事故の場合は、保険の免責額、事故の調査等に要した費用のうち保険給付の対象とならない経費及び保険料率アップ相当額の合計額である。

(5) 本件事故は、前記のように、被告が二トントラックの後部ドアのフックを閉め忘れたことにより、走行中に右後部ドアが開き、付近の電柱のボルトにひっかけ、ドアのフック装置を損傷させ、修理費に金三万円を要したものであるが、昭和六三年八月二五日ころ、事故等検討委員会の裁定により、相当重い過失による場合(六〇パーセントの負担)として、本人負担額は、金一万八〇〇〇円と決定された。

(6) 被告は、いずれも後部ドアのフックの閉め忘れにより、昭和五八年七月一二日には走行中積載貨物を落下させ、昭和六二年九月二一日には配達中のダンボール箱を落下させる事故を起こして会社の信用を棄損して、けん責処分等を受けており、また、その後も会社から、基本動作の一つとして、集荷配達先で集配車から離れる場合には、必ずドアロック(フック装置のセット)をするように厳しく指導を受けていたにもかかわらず、またも本件事故を惹起したものである。

そして、このことは、前記事故負担金の裁定の理由としても考慮された。

(7) 原告会社には、九航会という従業員の福利厚生のための組織があり、同会では、従業員たる構成員の申請により、弁償した交通事故費については、一定の率でその援助をすることになっているが、被告は、右申請はしていない。

(8) 被告に対しては、本件事故により、従前支給されていた月二五〇〇円の無事故手当が六か月間合計金一万五〇〇〇円支給されなかった。

以上の事実が認められ、(証拠略)及び被告本人の供述中、右認定に反する部分は採用することができない。

2  右認定事実によれば、被告は、自己の職務である集配業務に従事中、右認定のとおり、その過失により、原告所有の車両を損傷し、原告に対し、金三万円の修理費相当の損害を与えたものであって、これが原告に対する不法行為(又は債務不履行)に該当することは明らかである。

3  被告は、原告会社内においては、原告から従業員に対し、業務中の交通事故による損害等については、その賠償請求をしないという慣行が存在していた(右慣行が原告と被告間の労働契約の内容となり、被告に、原告から交通事故に関する損害賠償を請求されることはないという既得権が発生していたし、また、右慣行、既得権の存在により、原告の現行就業規則一五条の制定が、合理性のない不利益変更となる。)旨主張する。

ところで、被告主張のような慣行や既得権が存在すると言うためには、当該慣行や既得権が当事者の明示又は黙示の意思を媒介として、労働契約の内容となっている必要があると言うべきところ、前記2の認定事実によれば、原告会社において、被告が雇用されて以来、現行就業規則の改訂までの間に、従業員が発生させた事故等について、会社から従業員に対する損害賠償の請求が全くなされていなかったわけではなく(ただし、すべての事故について一定の基準をもってなされていたとは言いがたい。)、損害賠償請求権を一律に放棄していた等の事情は認められず、かえって、現実に請求していた事例もあるし、従業員を雇用する際には、従業員に会社に対する損害賠償義務が発生することがあることを前提とする身元保証契約が締結されてきたこと等の事情が認められ、右のような事情のもとでは、原告会社において、被告主張のような慣行や既得権が存在したと言うことはできない。

二  争点2(信義則違反、権利の濫用)について

1  被告は、自己の業務ないし労働条件が過酷であること、過去の事故歴が少ないこと、無事故手当を六か月分合計金一万五〇〇〇円をカットされたこと等を理由として、本件請求は、信義則に違反し、権利の濫用である旨主張する。

2  ところで、使用者が、その事業の執行につきなされた被用者の加害行為により、直接損害を被った場合には、使用者は、その事業の性格、規模、施設の状況、被用者の業務の内容、労働条件、勤務態度、加害行為の態様、加害行為の予防もしくは損失の分散についての使用者の配慮の程度その他諸般の事情に照らし、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度において、被用者に対し右損害の賠償を請求することができるものと解すべきである(最高裁判所第一小法廷判決昭和五一年七月八日・民集三〇巻七号六八九頁参照)。

証拠(証拠・人証略)によれば、原告会社には、被告以上に事故を多く起こしている従業員もいること、被告は、本件事故当時、二トン車業務を担当しており、同業務は、他の業務に比較し、重い物や数量の多い物が割り当てられたり、広範囲を、時間を気にしながら集配、運行しなければならない点はあるものの、被告が他の従業員と比較して特に業務、労働条件が過酷であったとは言えないこと、が認められる。

右事実に前記一1認定の事実を併せ考えれば、本件事故は被告の相当重い過失に起因するものであり、損害も決して軽微とまでは言えないが、原告会社における前記認定の事故による損害の一部負担制度は、主に、損害金を一部従業員に負担させることを通して業務の過程で発生する事故抑止力の強化を計ることを目的として実施されたものであること、被告は本件事故により無事故手当金月額二五〇〇円を六か月間(合計一万五〇〇〇円)カットされる処分を受けていることに、前認定の原告の事業の性格、規模、施設の状況、被告の業務の内容、労働条件、勤務態度、加害行為の態様その他諸般の事情を考慮すると、原告は、被告に対し、本件事故によって被った損害額の三分の一である金一万円の限度で請求することができるもので(右の限度では権利の濫用と言うこともできない。)、これを超える部分については信義則上請求が許されないものと言うべきである。

そうすると、右の限度で、被告の抗弁は理由がある。

三  よって、原告の本訴請求は、原告が被告に対し、金一万円の支払を求める限度で理由があるから認容し、その余を棄却し、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 堂薗守正 裁判官 小泉博嗣 裁判官 長倉哲夫)

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